導入
パウロがいよいよエルサレムの近くまでやってくると、エルサレムには上っていかないように忠告されてしまうのですが、パウロは愛を持って反論をし、これからの働きのために祈りつつ進んでいく箇所であります。
ポイント
今日もいつものようにポイントを2つあげたいと思います。1つ目のポイントは「困ったことが起こっても聖霊に導かれて歩んでいこう」ということと、もうひとつのポイントは「イエスさまから何をしたら良いかを教えてもらって生活しよう」ということを思いながらみことばを見ていきたいと思います。1節と2節をもう一度お読みいたします。
解説
ミレトスにおいてエペソの長老たちと最後の別れをした後、パウロたちは船での旅を続け、コス、ロドス、パタラに行きます。大きな貨物船というよりも中くらいの船、島と島を結ぶ定期船のような船をひと晩ずつ乗り換えて旅を続けました。そして彼らはパタラにおいてフェニキア行きの船を見つけます。パタラは古くからの商業が盛んな港町で、円形劇場があり、アポロの神殿があり、多くの人が行き交う場所でありました。
パタラにおいてフェニキア行きの船に乗ったパウロたちは、キプロス島を通過し、シリアへ向かい、イスラエルの地へ、ツロにたどり着き、いよいよパウロの第三回目の伝道旅行も終盤にさしかかるのでありました。
ツロを出発したパウロたちはプトレマイオスに、これまでの聖書ではトレマイとよばれるところに到着しました。このところにおいても主の兄弟たちとの交わりの時間を持ち、1日だけでありましたがそこに滞在して、いよいよカイサリアに到着するのでありました。
パウロがこの地に来たのは、エルサレムからタルソへの旅、第二回目の伝道旅行の終わりにアンティオキアから戻ったとき、そして今回で三度目であります。このところにはあの7人の一人、使徒の働き6章のところに出てきました「御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たち」であった7人のうちの一人であるピリポの家に行き滞在しました。
兄弟姉妹との交わりを楽しんでいたパウロたちのところに、今度はエルサレムやベツレヘムを含む広い地域であるユダヤ地方からアガボという預言者がやってきて、パウロにエルサレムへ上っていってはならないと警告するのでありました。
アガボはエルサレムやエルサレム近くの町においてパウロに対する悪いうわさを聞いていたのかも知れません。ユダヤ人たちのリーダーが群衆をあおりたてて、そそのかしてイエスさまを捕らえたときのように、きっとパウロたちを見つけたら、捕まえて、両手と両足を縛られて、異邦人に引き渡されることになるだろうと語るのでありました。
これに対して、パウロの反応が少しきついように思えてしまうことばでありますが、少し読み替えますと、「あなたがたは何を意味して、私の心を泣き悲しませるのか。」と読むことが出来、頑固で、言うことを聞かないで、自分の意見を押し通す感じもありますが、愛を込めた優しい気持ちも込められており、感謝のことばも伝えたのではないかと。死ぬことさえも覚悟していると語ったパウロは、アガポとも交わりを持ち祈りつつ別れたのではないかと思います。
適応
私たちの日々の生活においても、神さまの働きがいろいろなところであわらされ、答えは一つではないのだな、神さまによって導かれて決断していかなくてはならないのだな、小さなことや大きなこと、どんなことであっても神さまにその都度、何をすべきか祈りつつ歩んでいくことが大切なのだなと考えさせられます。
時には、自分の考えとは違うことや自分のやりたくないことをしなくてはならないときもあるかも知れませんが、何でこうなるのですか、どうしてこんなことになるのですかと愚痴を言いたくなるようなときもあるかも知れませんが、祈りながら行っていくときに、これで良かったのだ、神さまが導いてくれたのだと思うようになるのであります。
パウロがいつも神さまを中心にして、神さまを第一にして歩んでいったように、私たちも心の内側に聖霊なる神さまが働きかけてくださって私たちの歩みを守ってくださって、生かしてくださるのであります。
私たちのこれまでもいろいろなことが起こってきたように、これからの日々において何が起こっても大丈夫なように、日々、聖霊によって導かれて歩んでいきたいと思います。
パウロたちがよいと思えることも、悪いように思えることも、聖霊に導かれて歩んでいったように、神さまから離れないで神さまの御手の中で歩んでいきたいと思います。