導入
今日の箇所も先週に引き続き、使徒たち、ユダヤ人たちによってなされたエルサレムで会議について記されている箇所であります。
ポイント
1つ目のポイントは「一番良いことをしてくれる神さまに期待していこう」ということと、もうひとつのポイントは「どんなことがあっても神さまだけを信じて歩んでいこう」ということを思いながらみことばを見ていきたいと思います。
解説
先週お開きしました箇所、7節から11節のところには、初代教会の中心メンバーの人であったペテロの証言が書かれており、異邦人であったコルネリオが回心したときに、聖霊が与えられて、信仰によってきよめられたのだと語ったのでありました。
これまでああでもない、こうでもないと論争していた人々は、この話しを聞いて黙り込んでいると、バルナバとパウロが異邦人の間で行われたしるしと不思議について話をし、伝道旅行の時に起こった神さまの御業を証するのでありました。
ペテロ、バルナバ、パウロ、それぞれの話しが今度はヤコブが両方の立場を配慮して語り出すのでありました。
彼は保守的なユダヤ人キリスト者として、エルサレムの教会において中心的なメンバーとして活躍していたこともあり、パリサイ派で信者になった者たちと異邦人に伝道を行ってきた者たちの間に入って最終的な決定をくだすのでありました。
ヤコブは、ペテロのことをシメオンと呼んだことで、その場の空気が一変したのを感じ、ペテロ、バルナバ、パウロの語ったことが旧約聖書に記されている預言が成就したと語ったのであります。
このところの解釈についてはいろいろな考えがあるようなのですが、ヤコブがアモス書の9章11節と12節の箇所を引用して、ダビデの幕屋を建て直されて、異邦人が主を求めるようになるのだと語ったのであります。
異邦人も主の民に加えられることは、大昔に旧約聖書で預言されていたように、神さまのご計画であったのです。異邦人への伝道と救いによって、幕屋が再建されるかのように、主を信じる者たちのコミュニティである教会が建て上げられていくのである。だから、神に立ち返った異邦人を困らせてはいけないとヤコブは語ったのでありました。
ユダヤ人のアイデンティティーを持ちつつ、主を信じるキリスト者として、パリサイ派のクリスチャンたちと異邦人のクリスチャンたちの両者に対して配慮するために次のことを付け加えました。
さて今日は、ユダヤ人たちによってなされたエルサレムで会議について、ヤコブが語った初代教会のルールについてみことばを見てきました。
性質の異なる2つの教会が、イエス・キリストの福音をもとにして一致し、基本的な簡単なルールの中で生きていくために、当然負うべき重荷、愛し合って、許しあって、助けあって歩んでいく必要があったのではないかと思います。
旧約聖書の時代において、異邦人が救われるためには、割礼を受けてユダヤ人となる必要がありました。異邦人の文化の中では行われていなかったユダヤ人の文化を一つひとつ守り行わなければなりませんでした。
そんな中、厳しくて正しくて、怠けてはいけない、だらしないことをしてはいけないといったようなパリサイ派の教えによって、これをしてはならない、あれをしてはいけないと裁きあうような習慣があったかもしれませんが、ここで新しく決められたルールによって、ユダヤ人はユダヤ人として、異邦人は異邦人として信仰を建て上げていったのであります。
異邦人に対して儀式の免除をするかのように、これまで大切にしてきた儀式の時代が終わり、神の恵みの時代になる、教会の時代になる。罪人は儀式によって救われるのではなく信仰によって救われるのだ、異邦人が神を求める、異邦人が神を敬い、救いを受ける時代が来たのだというのであります。
適応
神さまの恵みが2020年を生きる私たちにも与えられて、異邦人である私たちも主を求めるようになり、主の民に加えらたことによって霊とまことをもって主を礼拝する者へと変えられたのであります。
今日このとき、私たちが主を礼拝するということはどういうことなのか、神の国と神の義を第一としていくことはどんなことなのかもう一度思い巡らしていく時を持っていこうではありませんか。
また私たちにも福音が届けられたことを感謝し、異邦人のクリスチャンとしての歩みをしっかりして歩んでいくことが出来るように、さらに主を求めて歩んでいこうではありませんか。