収穫を与えてくれる神さまに感謝

導入

今年はこのヨハネの福音書4章36節から、イエスさまの十字架によって永遠のいのちが与えられ、救われていることを喜んで生活していけるように、またその喜びを多くの人と分かち合って福音の種を蒔いて多くの実を刈り取っていけるように、教会に与えられているビジョンを思い描きながら歩んでいけるようにと願い歩んで来ました。 

ヨハネの福音書4章36節
すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。

ポイント

今日もいつものようにポイントを2つあげたいと思います。1つ目のポイントは「収穫の恵みが与えられていることを感謝しよう」ということと、もうひとつのポイントは「救いの恵みが与えられていることを喜ぼう」ということについてみことばを見ていきたいと思います。

解説

ヨハネの福音書4章にはサマリヤの女性とイエスさまとのやりとりについて記されています。サマリヤの女性が生きる目的、人生の目的を見つけられず、目に見えることだけをよりどころとしていたとき、イエスさまと出会ったことによってメシヤの存在を知り、罪からの救いを得ることができると知ったのでありました。

イエスさまに出会ったサマリヤの女性は、毎日の生活に肉体的にも精神的にも疲れを覚え、生活をもっと楽にしたいと思い、井戸に水をくみに行かなくてもすむ、不思議な水があるのなら「その水がほしい!」と思ったのであります。

イエスさまが与えようとされた水は、ただの飲み水ではなく、霊と心の渇きを潤すいのちの水、魂の飢え渇きを満たすための霊的な食べ物と水のことを言われたのですが、このサマリヤの女性は、イエスさまの言われた水を実際の水と勘違いし、その水を手に入れたいと思い「その水を私に下さい。」と願い出るのでありました。

イエスさまはこの女性の抱えている問題を全て言い当てて、全てを見抜いてしまうと、サマリヤの女性は生きる希望を得ることが出来、持ってきた水がめをその場において町に戻り「私のことを全部言い当てた人がいます!これまで伝説のように言い伝えられていたキリストが、救い主が現れたのではないかと思います!!みなさんも今すぐ来て見て下さい!!!」と声を張り上げて語り出したのであります。

これを聞いた人びとは、あのサマリヤの女性がなんか言っているよ、どうしたのかしら、何かあるみたいだから行ってみようと町のみんなは出かけて行くのでありました。そんな素晴らしい救いの御業がなされていたのでありましたが、食事を買って帰って来た弟子たちはイエスさまが女性と話したのを見て驚くのでありました。

この当時、ユダヤ教のラビは道端で女性と話すことを許されておらず、女性との会話はトーラーの学習、律法の学びの妨げになると考えていました。弟子たちがイエスさまになぜ女の人と話をしていたのですかと質問をしようかどうしようかと悩んでいたのは、彼らがイエスさまの行動を恥ずべきことであると感じていたからなのであります。物質的な食べ物に関心を持っていた弟子たちに対して、イエスさまは霊的な食べ物について説明をするのでありました。

イエスさまは神のみこころを行うことが、物質的な食べ物よりも優先されるべきだと語りました。だからといって、実際の食べ物を無視してよいかとそうではなく、イエスは御父から与えられたご計画を完成させることに集中していたのであります。

イエスさまは霊的な食べ物について、収穫のための4ヶ月という期間をあげ、実際の食べ物は収穫するのに時間がかかるけれども、霊的な食べ物、霊的な収穫には時間は関係ないと語るのでありました。

霊的収穫においては、種まきをいっぱいすれば刈り入れもいっぱいあるといったようなことは不確かでありますが、種を蒔く人がいれば刈り取る人もいるといったチームプレーによってなされていくということを語るのでありました。

父なる神さまのみこころを行っていくことと、救いの御業の完成に向かって取り組んでいくことによって霊的な食物を手に入れることが出来る、イエスさまとの会話をして霊的な食物を得たサマリヤの女性がイエスさまのことを証ししたことによって、父なる神さまのみこころがなされ、救われる者が起こされるのでありました。

目を上げて畑を見なさい、サマリヤの女性が多くの人びとを主の御前に連れてこようとしている。これから後、サマリヤの人びとがわたしの話すことを信じるようになって、霊的な魂の収穫の時が目の前にやってきているのだとイエスさまは語られるのでありました。

旧約聖書の時代に活躍した預言者たちやバプテスマのヨハネによって、福音の種が多くの人びとの心にまかれ、イエスさまの福音への道が開らかれ収穫の時がやってくる!主を信じる者たちが次々に起こされていき、キリストの御国へ入る人びとが現れることによって喜びの季節がやってくるのだというのであります。

適応

福音の種を蒔く者と永遠のいのちに至る実を刈り取る者が違っていたとしても、イエスさまの御業を喜ぶことが出来るということは本当に素晴らしいことであります。私たちのこの教会がさらに主に用いられ、やがて多くの方が救われて、毎週の礼拝において多くの方とともに主に賛美を献げることが出来るように、主の素晴らしい御業がこの地においてもなされるように主に期待していきたいと思います。