困難があっても恐れない

導入

今日の箇所は、パウロのエルサレムでの第一歩、各地であらわされた神さまの御業を証しし主の御名をほめたたえるとともに、根も葉もないうわさ、誤解を解くために誓願を立てている者を助けるということが記されている箇所であります。

使徒の働き21章15-26節
数日後、私たちは旅支度をしてエルサレムに上って行った。
カイサリアの弟子たちも何人か私たちに同行して、古くからの弟子である、キプロス人ムナソンのところに案内してくれた。私たちはそこに泊まることになっていたのである。
私たちがエルサレムに着くと、兄弟たちは喜んで迎えてくれた。

ポイント

今日もいつものようにポイントを2つあげたいと思います。1つ目のポイントは「いつも聖霊に助けてもらって生活していこう」ということと、もうひとつのポイントは「聖書のみことばを信じて実行していこう」ということを思いながらみことばを見ていきたいと思います。

解説

彼らがエルサレムへ着くとキプロス人ムナソンのところへ行くのでありました。イエスさまの福音によって救いの恵みに預かったムナソンは、パウロがエルサレムに戻って来たことを聞いて喜んで迎えるのでありました。そして翌日には、ヤコブのところに行き、エルサレム教会のリーダーである長老たち、ユダヤ人のクリスチャンたちとも再会すると、異教の文化の中で生活しているユダヤ人たちをはじめ異邦人たちも神の救いの御業が各地においてなされたことを証しして、主をほめたたえるのでありました。

そんな素晴らしい神さまの御業を聞いてうれしい気持ちになるのでありましたが、残念なニュースも飛び込んでくるのでありました。

根も葉もない、何の根拠もないうわさによってパウロは迫害を受けることになってしまったのでありますが、エルサレムにおいてはその迫害の勢力がさらに大きくなり、パウロがモーセの律法に背くことを教えているというのでありました。

以前お開きしましたところ20章6節には、種なしパンの祭り、過越の祭をした後でピリピを出発したとあり、20章16節ではペンテコステの日、五旬節の日にはエルサレムへと戻りたいと計画していました。もし仮に、パウロがモーセの律法を無視して、福音を広めていたとしたら、祭りを守ることもなかっただろうし、急いでエルサレムに戻る必要も無かったと思います。

クリスチャンでありつつユダヤ人の教えを厳格に守っていたパウロにとって、このような言いがかりを付けられることははがゆい思いであったかも知れませんが、謙遜にさせられた、へりくだりを身につけたパウロはエルサレム教会のリーダーたちの意見を聞き受け入れるのでありました。

パウロは教会のリーダーのアドバイスを受けます。その内容は、律法の教えを厳格に守っている証拠、律法への従順の証しとして、誓願を立てている者たちと一緒に身を清め、神殿でささげ物をするようにということでありました。この誓願とは何かといいますと、旧約聖書の民数記6章を見ますと、ナジル人の誓願ということが出てきています。
ナジル人の誓願として、ブドウで作られた物を飲まない、髪の毛を切らない、死んだ人に近寄らないなどがあげられ、この清めの期間が終わると頭を剃って宮に入り供え物をささげるのであります。
パウロはこの律法の教えに従って清めの期間を守ると共に、誓願を立てた4人、誓願のための費用を必要としている彼らを助けるようにと言われました。パウロがこのような行動を取るのならば、律法の教えをしっかりと守り実行しているということが明らかになるだろうと思われたのであります。パウロはこのアドバイスを受け入れて、変なうわさを取り除こうとするのでありました。

適応

 

神さまの福音、聖書のことばは、ユダヤ人、ギリシヤ人を始め、私たち日本人にとっても救いを受けることの出来る神の力なのであります。私たちは救いを受ける資格のない罪人であったのですが、イエスさまの十字架の贖いによって救いの道が開かれたのであります。私たちもイエスさまの福音を信じるとき、イエス・キリストが主であると告白するとき、救いの中に入れていただけるのであります。

私たちが何か思いもよらない壁にぶつかったとき、簡単に解決できない問題にぶち当たったとき、祈りつつ、みことばを求め、主の助けを信じていくのならば、解決が与えられるのであります。私たちが日々の歩みにおいて、みことばを求め、みことばから解決となることを探し、みことばを開くならば、全ての問題に解決が与えられるのであります。聖書のことばを聞き、信じて、従うのならば、そこに神さまの御業が現され、恵みと祝福があふれ出るのであります。

これからの日々、主なる神さまによって、明るくて、うれしくて、楽しいクリスチャンライフを送っていくことが出来るように、祈りつつ、みことばを求めていこうではありませんか。そして、世の光として輝いた歩みを送っていくことが出来るように、主と共に歩む素晴らしさを体験していくことが出来るように、聖霊なる神さまによって助けてもらって歩んでいこうではありませんか。