導入
今日は、久しぶりになりました、ローマ人への手紙をお開きしましてみことばを見ていきたいと思います。
今日の箇所は、割礼を受けている、受けていないということ、律法を守っている、守っていないということについて、心の割礼を受けることの大切さについて書かれている箇所であります。
ポイント
① 毎日御霊に満たされて歩んでいこう
② 聖書のみことばを受け取って生活していこう
③ 御霊による心の割礼
解説
この25節から「割礼」の問題について取り上げられています。割礼は創世記17章にありますように、父なる神さまとアブラハムとの間に結ばれた契約の一つで、男性の性器の包皮を一部切り除くというイスラエルの民においては大切な儀式でありました。割礼は受けたユダヤ人は、無宗教で不道徳な世界から離れ、心と生活において、父なる神さまへの献身を外見上の象徴とされていました。
この割礼と同じように大切にされていることとして、旧約聖書に記されている律法もまたユダヤ人にとってはなくてはならないものであり、割礼の儀式を器にたとえるのならば、律法はその器に入れる飲み物、食べ物を指し、割礼と律法のどちらかが大切なのではなく、どちらもなくてはならない大切なものとされているのであります。
そのような中、いろいろなパターンが考えられ、割礼を受けていないのに律法の規定を守る人はどのような扱いを受けるのかと。ユダヤ人たちに伝えられていたイエスさまの福音が異邦人にも伝えられ、救われる人が起こされ、異邦人も律法を守ることが出来るではないか、その場合はどうなってしまうのかと議論がなされるのでありました。
この28節と29節において、真のユダヤ人と真の割礼について語られています。外見上のユダヤ人と人目に隠れたユダヤ人とを対比され、ユダヤ人が大切にしている割礼が本物の割礼なのではなく、御霊による心の割礼こそ割礼なのだと語られています。
人から称賛されること、誉められることは、一時的で消えて無くなってしまうことでありますが、父なる神さまから来る称賛は、何にも変えることの出来ない恵みであり喜びであります。この恵みと喜びを受けていることによって、心からの主への賛美が生まれるのであります。
イスラエルの民の中には、割礼を受けているから大丈夫、選ばれた民なのだと安心しきって堕落していった者たちもいたかも知れません。また律法を守っていると言いながら神さまの喜ばれないことを行っている人たちもいたかも知れません。
もちろん割礼を受けていることも大切なことでありますが、割礼を受けていなくても律法を守っていることが大切なのであります。どちらが良くてどちらが悪いというよりも、裁き合うことなく、御霊による心の割礼を受けることが大切なのであります。
適応
私たちも心の割礼を受けて、みことばを握って歩んでいくことが出来ますように、イエスさまの福音を信じ、イエスさまの十字架を見上げて歩んでいきたいと思います。そして、神さまとの交わりを喜びとし、感謝し、このお方だけを礼拝し、賛美をささげ、仕えていくことが出来るようにさせていただきたいと思います。