神に栄光をかえすことの大切さ

導入

ペテロを捕らえていたヘロデが、ヘロデ王こそが神であるという民衆の声を聞いて喜んだ、思い上がったことによって御使いによって打たれてしまう、死んでしまうことについて記されている箇所であります。

使徒12章22〜23節

㉒そこで民衆は、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けた。㉓するとたちまち、主の使いがヘロデを打った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。彼は虫にかまれて息が絶えた。」

今日のポイント

今日もいつものようにポイントを2つあげたいと思います。1つ目のポイントは「神さまに栄光を帰すことを忘れないでいよう」ということと、もうひとつのポイントは「神さまの前に謙遜になり自慢したり高ぶったりしないようにしよう」ということを思いながらみことばを見ていきたいと思います。

解説

それではもう一度使徒12章18節と19節をお読みします。
「⑱さて、朝になると、ペテロはどうなったのかと、兵士たちの間に大騒ぎが起こった。 ⑲ヘロデは彼を捜したが見つけることができないので、番兵たちを取り調べ、彼らを処刑するように命じ、そして、ユダヤからカイザリヤに下って行って、そこに滞在した。」
ヘロデ王はユダヤ人たちの人気を得るため、イエスをキリストと信じる者たち、ユダヤ人の指導者たちが煙たがっている者たちを苦しめてやろうと考えて、ヨハネの兄弟ヤコブを殺し、次はペテロだと思っていたところ、ペテロがいなくなったと兵士たちが騒いでいたのであります。四人一組の兵士四組で監視させていたのにも関わらずペテロがいなくなった。きっと番兵たちの中に裏切り者がいるのだと思ったヘロデは彼らを処刑するように命じて、エルサレムからローマの行政の中心地であったカイザリヤへ出かけて行くのでありました。続いて使徒12章20節から23節をお読みします。
「⑳さて、ヘロデはツロとシドンの人々に対して強い敵意を抱いていた。そこで彼らはみなでそろって彼をたずね、王の侍従ブラストに取り入って和解を求めた。その地方は王の国から食糧を得ていたからである。㉑定められた日に、ヘロデは王服を着けて、王座に着き、彼らに向かって演説を始めた。㉒そこで民衆は、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けた。㉓するとたちまち、主の使いがヘロデを打った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。彼は虫にかまれて息が絶えた。」
カイザリヤへ出かけて行ったヘロデは、ツロとシドンに住んでいる人々を見て非常に腹立たしく思うのでありました。なぜそのように思ったかはわからないのでありますが、食料がなくなったらこまる、食料を買う買わない、お金を払う払わないなどといった経済的なやりとりがあって思うようにならないことがあったのではないかと思われます。
ツロとシドンに住んでいる人々はヘロデが腹を立てていることを知り、和解をしなければと思い、王の侍従ブラストに取り入って和解を求めたのでありました。そんな様々な努力もあって、彼らは和解の記念式典を開いてヘロデに喜んでもらおう、機嫌を良くしてもらおうと思ったのでありました。
そして和解の記念式典の日、ヘロデはきらびやかな王服を着て、王座について演説を始めると、それを聞いていた人々がヘロデのご機嫌をとるかのようにして「神の声だ」と叫び続けているとヘロデは調子にのってとても機嫌が良くなり羽目をはずして「我こそが神である」と言ったかどうかはわかりませんが、神さまに栄光を帰さなかった、神さまが受け取る栄光を自分のものにしてしまったことにより、なんと御使いによって打たれてしまい、虫にかまれて死んでしまったのであります。
この23節の「主の使いがヘロデを打った」の「打った」ということばは、7節の「御使いはペテロのわき腹をたたいて」の「たたいて」ということばと同じ単語が使われており、主の御使いはペテロをたたいて命を助け、一方でヘロデを打って命を取るという、主のみことばに従うか従わないかで対照的なことをなされたのであります。これらのニュースが届けられたかどうかわかりませんが、主の素晴らしい御業がさらに広められていくのでありました。使徒12章24節と25節です。
「㉔主のみことばは、ますます盛んになり、広まって行った。㉕任務を果たしたバルナバとサウロは、マルコと呼ばれるヨハネを連れて、エルサレムから帰って来た。」
アンテオケ教会を代表してエルサレムへ出かけて行ったバルナバとサウロは、与えられた任務を全うしてマルコと呼ばれるヨハネを連れて帰ってくるのでありました。
この素晴らしい福音の種まきと刈り入れがなされていったことがきっかけとなって、いよいよ国外へと伝道旅行がなされていくことになるのでありました。

適応


今週一週間味わっていきながらへりくだることの大切さをもう一度教えていただこうではありませんか。そして、主と共に歩んでいくことにおいて神さまの栄光をあらわすことがいかに大切であるかを教えていただいて歩んでいこうではありませんか。