とりなしの祈りの力

導入

今日の聖書箇所は、アブラハムが神様に直談判していくところです。とりなしの祈りには力がある。子供達には、とりなしの祈りとは意味が分からないかも知れませんが、学校の先生や友達のために祈ることであり、一般には、国の政治家のために、牧師のために、家族のために、友人・知人のために祈ることであります。

創世記18章17-22節
主はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。 アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行なわせるため、主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」

解説

神様御自身がはたらいて下さるということを例として見ていきたい。祈る対象のことを考えて見たい。創世記18章17節に「主はこう考えられた。「わたしは、自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」」。これは、アブラハムがとりなしをする前に、神様が与えてくれた言葉、不思議な言葉、神様のもとにつもるソドム&ゴモラの悪がはびこったことを神様が知り、滅ばしてしまう前に、私の信頼しているアブラハムに云っておきたいと思われた。

そのように、神様は私達に何をとりなすべきかを教えてくださる。アブラハムは神様と50人、40人、30人と譲歩していく。ソドム&ゴモラに甥のロトが住んでいる。アブラハムは甥のロトだけの救いを求めたのではない。幸いロトは助けられた。ソドム&ゴモラの町の人々よくは分からないが、当時としては多くの人が住んでいた。

25節の言葉でとりなしが始まっていく。「正しい者を悪い者とともに殺し、そのため正しい者と悪い者が同じようになる、というようなことを、あなたがなさることは絶対にありません。そんなことは絶対にあり得ないことです。全地をさばくお方は、公正を行うべきではありませんか。」アブラハムはソドム&ゴモラのことを良く知っている。最初に出した正しい人の数が50人、(もしかしたら50人はいないかも)状況をふまえてきちんと祈ってゆく。

今日のコロナウイルスの流行に関しても具体的に的確に祈る必要がある。ニュースの中には批判が多い。そうかも知れないが、今それを云う時か。今はしっかりとりなしていくべき時ではないか。祈りのカギをつかんで祈る。そのカギは御言葉である。御言葉に従って祈ることが必要である。何を祈るべきかと、考えているときに御言葉が与えられる。 

最終的には喜びなさい。と教えている。上記の25節の文章は、神様にプレッシャーのかかる言い方。あなたは決して、なさいませんとプレッシャーをかけている。正しい方、あわれみ深い方であるのでと祈っている。最善を祈ってゆきたい。

32節。「㉜また彼は言った「わが主よ。どうかお怒りにならないで、もう一度だけ私に言わせて下さい。もしかすると、そこに見つかるのは10人かもしれません。」すると言われた。「滅ぼしはしない。その10人のゆえに。」」。10人までゆく。そして5人足りなかったらと神に祈るが、正しい人はいなかった。民数記13章で、ヨシュアとカレブ以外の人々は40年の間に死に絶えるが、ヨシュアとカレブは生き残る。これは不思議なことである。信仰を持った2人は生き残る。

ロトはどうだったのか。ロトは新約では、義人と言われている。信仰を持っていたので、義人とされている。神から認められたので、ロトは義人だったが、即義人ではないような気がする。19章を見ると、「しかし、彼らは言った。「引っこんでいろ。」そして言った。「こいつはよそ者のくせに、裁きをするのか。さあ。おまえを、あいつらよりもひどい目にあわせてやろう。」彼らはロトのからだに激しく迫り、戸を破ろうと近づいた。」。

門の通りに座っているのは有力者。門が壊されたり、滅ぼされたりするので、立場の高い人がいた。ロトは、ソドムとゴモラの中である程度うまく立ち回っていたのではないか。ロトは短期間なのにソドムの町でうまくやっていたのではないか。

19章10,11節、「すると、あの人たちが、手を伸ばして、ロトを自分たちのいる家の中に引き入れて、戸を閉めた。家の戸口にいた者たちは、小さい者から大きい者まで目つぶしをくらったので、彼らは戸口をを見つけようとする力も萎えた。」。この後、神は、この町を滅ぼそうと決定した。調査団を送り、滅ぼすか滅ぼさないかを決めようとしていた。

主はソドムとゴモラの町を救いたかったのではないか。アブラハムにとりなしの祈りをして欲しいと思っておられた。14節、「そこで、ロトは出て行き、娘たちを妻にしていた婿たちに告げた。「立って、この場所から出て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられるから、」しかし、彼の婿たちには、それは悪い冗談のように思われた。」。ロトの言うことが婿たちには伝わらず。婿たちはロトを信じなかった。日頃のロトの態度が婿たちに対して説得力がなかったのであろう。

15節。「夜が明けるころ、御使いたちはロトをせき立てて言った。「さあ立って、あなたの妻と、ここにいる二人の娘を連れて行きなさい。そうでないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまいます。」。夜が明けるころ、滅びが決定されたがロトは動こうとはしなかった。ロトもなぜか逃げれば良いのに逃げなかったので、御使いは速く逃げるようにせき立てた。

16節。「彼はためらっていた。するとその人たちは、彼の手と彼の妻の手と、二人の娘の手をつかんだ。これは、彼に対する主のあわれみによることである。その人達は彼を連れ出し、町の外で一息つかせた。」。ためらっていたとあるが、主のあわれみにより御使いたちは、彼らを安全なところに連れて行った。ロトの意思を越えて神は扱われる。人の自由意志ではない。神の憐れみによるのである。アブラハムの祈りのポイントでもある。

更に主のあわれみの深さのあらわれは、17節。「彼らを外に連れ出したとき、その一人が言った。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこにも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。そうでないと滅ぼされてしまうから。」。山に逃げなさい。18節。「ロトは彼らに言った。「主よどうか、そんなことになりませんように。」」。主よどうかそんなことになりませんように。

19・20節。「ご覧ください。このしもべはあなたのご好意を受けました。そしてあなたは私に大きな恵みを施してくださり、私のいのちを生かしてくださいました。しかし、私は山にまで逃げることは出来ません。おそらく、わざわいが追いついて、私は死ぬでしょう。ご覧下さい。あそこの町は逃れるのに近く、しかもあんなに小さな町です。どうか、あそこに逃げさせてください。あんなに小さいではありませんか。私のいのちを生かしてください。」。山にまで、行くのは大変なので、あそこの小さい町に逃れさせてください。と頼む。

本当は、その町も滅ぼすことになっていた。21・22節。「その人は彼に言った。「よろしい。わたしはこのことでも、あなたの願いを受け入れ、あなたの言うあの町を滅ぼさない。急いであそこへ逃れなさい。あなたがあそこに着くまでは、わたしは何もできないから。」それゆえ、その町の名はツォアルと呼ばれた。」。アブラハムが祈ったそのことが聞き届けられた。アブラハムの祈りの結果である。ロトが、救われるだけでなく、神様の祝福を見ることが出来る。私達の救われていない家族、上に立つ人達のためにしっかりととりなしの祈りをしていきたい。