みことばの種

導入

今日は第一日曜日ですので、2020年の年間聖句として導かれましたみことばと関係する箇所からみことばを見ていきたいと思います。今年の年間聖句は、ヨハネの福音書4章36節のみことばでございます。

「すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。」

ルカの福音書8章4-15節

別の種は良い地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスは、これらのことを話しながら「聞く耳のある者は聞きなさい。」と叫ばれた。

ポイント

1つめは「聖書のみことばに力があることを信じていこう」ということと、もうひとつは「イエスさまが生きる希望と喜びを与えてくれることを感謝しよう」ということを思いながらみことばを見ていきたいと思います。

解説

イエスさまは群衆に向かって、種まきのたとえを使って話しをされました。イエスさまは神の国の真理を理解できない人々に対しては、直球で勝負するのではなく、人々のそばに投げられ、福音のメッセージを聞いて、応答し、実行するかどうか、それを自分の物として受け取るか、受け取らないかを見ておられたのであります。
そんなたとえ話の意味でありますが、このたとえ話を聞いた群衆の中には、実際に種をまく農夫もいたかも知れません。イエスさまは日常の生活にあるものを題材に教えられたのだなと想像します。

この「たとえ」の語られたパレスチナ地方では、雨季が年に2回あるので始めの雨季の前にざっと種を蒔き、雨が降ったあとに耕すやり方をしていました。したがって種が小道やいばらの中にも落ちることもよくあったようです。4つの地に蒔かれた種でありますが、最後の良い地に落ちた種以外はみな実を実らせることが出来ずに収穫を得ることはありませんでした。

このたとえを聞いた群衆は、もっともなことを言う人だなぁ、当たり前じゃないかと思い、イエスさまの話したかった意図を悟ることが出来ず帰って行った人も多くいました。けれども、イエスさまの弟子たちは、このたとえには何か意味があると思い、イエスさまにこの話の意味を尋ねるのでありました。9節以降をお読みします。

『しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。』

この11節を見ますと、イエスさまはこのたとえ話の主題が「神のことば」であるとハッキリと述べました。道ばたに蒔かれた種は、みことばを聞いても悟ることの出来ない人、もしくは、悪い者によって蒔かれた種がとりさられてしまった人のことです。このような人々は、かたくなな心、否定的な思いを持っている人々で、みことばを聞いても受け入れることが出来ないのです。

次に、岩地に蒔かれた種は、道ばたに蒔かれた状態と違って、みことばを聞いて、喜んで受け入れる人です。けれども、耕されていないため、信仰が試されたときに、みことばに従うことが出来ず、信じることが出来ず、つまずいてしまうのです。

続いて、いばらの中に蒔かれた種は、岩地に蒔かれた種と同様に、みことばを聞くのですが、この世の欲望によって惑わされ、救われる前の罪の性質が邪魔をして、成長することが出来ない、実を結ぶことが出来ないのです。

そして、最後に、良い地に蒔かれた種は、みことばを聞く準備が出来ており、心がやわらかくされ、よく耕されていることによって、みことばを聞いて悟ることができ、否定的なこと、反論されることを言われても、みことばによって弁明することが出来、ほんとうの実を結ぶことが出来るのです。

ここで「神のことば」を聞いて悟るならば、豊かな実を結ぶことが出来ると言うことなのですが、このイエスさまが言われた「神のことば」、「みことば」は旧約聖書にあることば、救い主が来られるという預言であり、これまで語り継がれてきた本物の救いがいよいよ現実となったのだと信じることなのです。

イエスさまは、これらの意味をしっかりと理解し、自分に語られていることとしてしっかりと受け止め、応答していくようにと切なる願いを込めて、「聞く耳のある者は聞きなさい。」と叫ばれたのであります。

適応

聖書を読んでいきますと、励まされるみことばがたくさんあります。神さまのみことばが私たちの内側で神の力となるように、みことばの種がしっかりと実を結んで、救いの喜びとつながるように、さらに主を求め、みことばを求めていきたいと思います。

聖霊なる神さまが私たちの内に働いて力を与えてくださること、聖書のみことばには力があることを知って、生き生きとして輝いたクリスチャンライフを送ることが出来るようにさせていただきたいと思います。