どんな神を拝んでいるのだろう

導入

今日の箇所は、前回の箇所の続きで、パウロがアテネのアレオパゴスにおいてメッセージをする箇所から、あちらこちらに建てられている偶像を崇拝するではなく、全てのすべてを造られたまことの神さまを礼拝することが大切であり、全ての人々はその神さまによって悔い改めをするよう招かれているのだと語られた箇所であります。

使徒の働き17章22-31節
パウロは、アレオパゴスの中央に立って言った。「アテネの人たち。あなたがたは、あらゆる点で宗教心にあつい方々だと、私は見ております。
道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られていない神に』と刻まれた祭壇があるのを見つけたからです。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それを教えましょう。

ポイント

今日もいつものようにポイントを2つあげたいと思います。1つ目のポイントは「イエスさまの十字架によって罪を赦してもらおう」ということと、もうひとつのポイントは「いつも本当の神さまを信じて生活していこう」ということを思いながらみことばを見ていきたいと思います。

解説

パウロがアレオパゴスの中央に立つと、まずアテネの人々を「あらゆる点で宗教心にあつい方々」であると語り出すのでありました。この「宗教心にあつい」ということばは、良い意味でも悪い意味でも用いることが出来、「非常に信心深い」とか、「迷信深い」とも訳すことが出来ます。
このところにおいて、パウロはこのことばを良い意味で使い、アテネの人々を評価して話しを聞いてもらえるようにと願いつつ語り出すのでありました。
パウロが最初になぜこのようなことを語ったのかと言いますと、町を歩いていたときに礼拝の対象となる建物や像がたくさんあるのを見ていると、今度は『知られていない神に』と刻まれた祭壇があるのを見つけたというのでありました。

この24節からのところは、この説教の本論のところであり、ギリシヤ的な用語や物事や考え方をとりあげて聖書的な神について証言をするのであり、まずこの世界とすべてのものを造った神は手で造った宮には住まないということ、次に人に仕えられる必要がない、おそなえや難行苦行をしなくてもよいということ、そして全ての人に愛といのちをあたえてくれるということなのであります。
また26節からのところを見ますと、まことの神さまを正しく求めていくことの大切さが語られ、人間が神によって造られた存在であり、ひとりの人からあらゆる人が造り出されて、時代や国境をもさだめて、全ての人々に神さまからの愛の配慮がなされていることによって、多くの人々がまことの神さまを求めるようになるのだと語りました。
神さまが人間を造られた目的は、神にふれ、神を見出し、神を求めるようになって、神と共に生きることこそ、人間がこの地上に存在する意味であるのです。

パウロはこのメッセージの結論部分として悔い改めへと導いていきます。「今はどこででも、すべての人に悔い改めを命じておられます。」と語ったパウロは、神を信じる人も信じない人も、哲学者であろうとなかろうと、偶像崇拝を真剣にしている人も適当にしている人も、神さまの定めた審判の日が近づいている、イエス・キリストによって義のさばきが行われようとしているのだから全ての人が悔い改めなくてはならない、それもこのことはまことの神さまによる命令なのだと語るのでありました。
パウロはこのことを通して、最初の主題でもありユダヤ人の会堂でも語っていた、イエスさまの十字架での死と復活についてふれ、神さまがこのことを通して、義をあらわしてくださったことにより、悔い改めの招きが有効になって全世界へとおよんでいるのだと結論づけられるのでありました。

適応

私たちはこのような偶像に信頼するのではなく、まことの神さまにだけ信頼し助けを求めていくのならば、天からの祝福に預かることが出来るのであります。
これは御利益があるから信じるとか、何かを作って神さまとして信じるというのはなく、私たちを造ってくださった神さまがいて、このお方が天地万物を支配しておられて導いてくださるから信頼して歩むことが出来るのであります。
いまの現在において神がいるのならば、なぜいままでなかったウイルスで苦しまなければならないのかとか、いろいろな自然災害によって多くの人が死ななければならないのか、などなど疑問に思うことがあるかも知れませんが、私たちには神さまを知ることにおいて限界があり、神さまになることも神さまを超えることも出来ないのでわからないことがたくさんあるのです。けれども、主を信頼して、主を信じて求めていくのならば、何らかの答えを教えてくださるのではないかと思います。
主なる神さまは生きていて私たちに最善と最高の御業を行ってくださるからなのであります。今日このとき、もう一度、神さまの御前にへりくだって、主を求めていこうではありませんか。そして、まだ悔い改めていないことがあるのならば、主の御前に進み出て悔い改めの祈りをしようではありませんか。主はいつでも私たちのそばにいてくださって助けてくださいます。今日も全知全能であられる神さまだけを信頼して歩んでいきたいと思います。