刈り入れのシーズンを迎えて

導入

今日は詩篇126篇をお開きしまして、刈り入れの素晴らしさや恵みについて、どんなに苦しいことがあっても喜びの時を迎えられることについてみことばを見ていきたいと思います。

詩篇126篇1-6節
涙とともに種を蒔く者は 喜び叫びながら刈り取る。

種入れを抱え 泣きながら出て行く者は 束を抱え 喜び叫びながら帰って来る。

ポイント

今日もいつものようにポイントを2つあげたいと思います。1つ目のポイントは「収穫の恵みと祝福が与えられることを感謝しよう」ということと、もうひとつのポイントは「神さまとの関係をより良いものとしていこう」ということについてみことばを見ていきたいと思います。

解説

この詩篇126篇は、シオンであるエルサレム、神さまの臨在をあらわすエルサレムが、主によって元通りに回復されるように、またそれとともに神さまからの祝福があふれ流れていくようにと願い祈る箇所であります。

エジプトでの苦しい生活とエジプトを脱出した時、バビロンにて補囚の民となった生活と補囚の後の生活、そしてこれから救い主であるメシアが現れることを待ち望みながら、主なる神さまの御業に感謝し喜ぶのでありました。

神さまの御業は偉大であり大いなることである。イスラエルの民はもちろんのこと、諸国の異邦人も主のなさることは偉大で素晴らしい御業であると主の御名をほめたたえるのでありました。

いま現実に起こっていることは、苦難と不安の連続であるかも知れない、どうにもこうにもならない試練と失望の中であるかも知れない。けれどそのような状況であっても主の助けと祝福と平安を求めて祈ることが出来るのでありました。

雨の降らない砂漠の地域であっても、秋には初めの雨、春には後の雨と呼ばれる一気に雨が降る季節には、砂漠の水路に雨水が激しく流れていき、植物がいっせいに成長して収穫を迎えるのであります。砂漠の茶色だった景色から植物が育って緑色の景色になる、死んでいたような状態から生き返ったような状態へと変わり、寂しい悲しいところからうれしい喜びの叫びがあふれ、刈り取りの恵みと祝福をいただくのであります。

種を蒔く人はどのような気持ちで種を蒔くのでしょうか。現代のように、科学や技術が発達したことによって、この種はこのような土に、肥料はこれくらい、水はこれくらい、日照時間はこれくらいで育てるのならば、必ずこれこれの収穫が出来るとわかるのでありますが、旧約聖書の時代は、どうしたら雨が降るのかわからない、この種ならどれくらい蒔けばよいのかもわからない、どの季節ならばたくさん収穫できるのかもわからない、種が無駄になってしまうかも知れないと思いつつ、信仰を持って、涙を流して乾いている土地に種を蒔くのでありました。

そんな中、主を信じる信仰によって歩んで来た者たちは、収穫の時を迎えると、主が与えてくださった大喜びで収穫をして、束を抱えて、喜び叫びながら帰ってくるのでありました。

今日のこの箇所を読んでいますと「涙とともに種を蒔く」ということを、伝道の働きにおきかえて読みたくなってしまう、涙を流して労苦して伝道するのならば、束を抱えて収穫できると思ってしまうのですが、この箇所において大切なことは、神さまとの個人的な関係をしっかりと結んでいくことについて語られているのであります。

イスラエルの民は神さまとの関係が悪くなり、神さまから離れていくと、異邦人から苦しめられて祝福がなくなる。しばらくすると神さまとイスラエルの民の壊れた関係を修復するために預言者が現れて、神に悔い改めて立ち返ると祝福が戻ってくる。

雨が降ってうるおされた土地をしっかりと耕して種を蒔くのならば必ず収穫が与えられるのと同じように、涙を流して罪を悔い改めて神さまに立ち返るのならば、かたくなっていた心がうるおされて耕された柔らかくされて豊かな実を結ぶ、神さまとの関係が修復されて、神さまからの平安と恵みと祝福を受けることが出来るのであります。

適応

私たちの日々の生活においては大変なことも苦しいこともあります。イエス・キリストの福音を信じているから辛いことは何もないのだ!と言いたいのですがそうもいかず、毎日、毎日いろいろなことが起こります。けれどもどんなことが起こっても、主から離れないで歩んでいくのならば必ず解決が与えられるとともに前進することが出来、よきクリスチャンとして成長していくのならばクリスチャンとしての魅力がにじみ出ていくことになり、自然とイエスさまの麗しい香りをはなっていくことができるのであります。

これからの日々もいろいろなことがあると思いますが、何があっても主から離れないで歩んでいきたいと思います。