導入

今日導かれましたみことばは、ヨエル書を通して、主の日、終わりの時に悔い改め、神の赦しを受け取って喜びに満ちあふれよと語られている箇所を見ていきたいと思います。

ヨエル書2章28-29節
その後、わたしは すべての人にわたしの霊を注ぐ。
あなたがたの息子や娘は預言し、 老人は夢を見、青年は幻を見る。
その日わたしは、男奴隷にも女奴隷にも、 わたしの霊を注ぐ。
わたしの霊をすべての人に注ぐ。

ポイント

今日も2つのポイントをあげたいと思います。1つ目のポイントは「罪を悔い改めて神さまと一緒に過ごしていこう」ということと、もうひとつのポイントは「私たちにも神さまの霊が注がれることを感謝しよう」ということを思いながらみことばを見ていきたいと思います。

解説

ヨエルは主の臨在をすべての人にあらわすのだ、神の霊をすべての人に注ぐのだと将来の約束と希望について語り、終わりの日、主の日にあらわされる祝福は目に見える形の祝福にとどまらず、霊的に内側からあふれ出る祝福なのだと語りました。

神さまはこの約束をペンテコステの日に未来に起こる前兆としてあらわしてくださいました。ペンテコステの日に神の霊が注がれたのは、エルサレムにて祈っていた人に限定的に注がれたのでありましたが、未来に起こる主の日にはすべての人に神の霊が注がれるのであります。

旧約聖書において、父なる神さまはご自分の意志、みこころを明らかにされた方法が3つ、預言、夢、幻という3つの方法がありました。新約聖書においては、ある人には奇跡的な賜物、御霊の賜物によって、また内在する御霊によって、神のみこころをあらわしてくださいました。

再び主が来られる再臨の時には、ある特定の人だけにではなく、すべての人に神の霊が注がれて、預言をする者、夢を見る者、幻を見る者が現れ、奴隷たちのようにしばられていた状態から解放されて自由にさせられるのだというのであります。

ヨエルは神のさばきに対する恐れと神の介入に対する喜びとを比較して語り、主の日、終わりの時に悔い改めない罪はさばきをもたらし、罰を受ける者となってしまう。けれども、神の赦しを受け取るときには恐れが無くなり、喜びがあふれてくるのだと語りました。

主なる神さまの介入によって主の日がおとずれることを喜びつつ待ち望み、断食は終わり、祝宴の食事を楽しみ、災害の被害は無くなって、収穫の恵みが与えられる、嘆き悲しみの歌は主なる神さまをほめたたえる賛美の歌へとかえられ、完全な回復が与えられるのだと語り、豊かな収穫と満ち足りる生活が約束され、「初めの雨」「秋の雨」と「後の雨」「春の雨」を地に降らせて下さる主なる神さまへの感謝の歌をささげるのでありました。

イスラエルの民をはじめ、いまを生きるクリスチャンにもあてはまることとして、罪の悔い改めの祈りをし、主の日がおとずれることを喜びつつ待ち望み、完全な回復が与えられるように神の導きに従って歩むように語られているのであります。

主と共に歩むのならば、神の祝福がすぐに手に入ると錯覚してしまうでありますが、主なる神さまによる御業を信じ、その時を待ち望んでいくことが大切なのであります。

終わりの日に約束されている主なる神さまの恵みを期待し、主なる神さまのみことばに従い、主なる神さまの導きを求めて行くのならば、そこに素晴らしい恵みが用意されているのであります。

適応

聖霊なる神さまは、私たちにすべてのことを教え、聖書のみことばを思い起こさせてくださり、平安を与えてくださるのです。また、私たちを日々新しく造りかえてくださり、キリストに似たものとなるように導いてくださるのです。

今日は、ペンテコステの礼拝、聖霊が弟子たちに臨まれたことを記念して行われた礼拝です。主なる神さまは私たちといつも共にいてくださり、私たちのクリスチャンライフが充実したものとなるように願っておられるのです。この素晴らしい恵みをさらに味わい、主の恵みをさらに受け取っていきたいと思います。

神さまの恵みがいたる所で現されるように、見えるところに頼るのではなく、主なる神さまにだけ期待して、これからの日々を過ごしてまいりましょう。