自由が与えられる

導入

今日お開きします箇所は、フェリクスの後任として新しく総督として着任したフェストゥスが、長い間、監禁されていたパウロの問題を解決しようとして、エルサレムへと出かけて行くのでありました。フェストゥスはユダヤ人たちの訴えを聞いたカイサリアへと戻り、裁判を開くことにするのでありました。

使徒の働き25章1-12節
すると、パウロは言った。「私はカエサルの法廷に立っているのですから、ここで裁判を受けるのが当然です。閣下もよくご存じのとおり、私はユダヤ人たちに何も悪いことをしていません。もし私が悪いことをし、死に値する何かをしたのなら、私は死を免れようとは思いません。しかし、この人たちが訴えていることに何の根拠もないとすれば、だれも私を彼らに引き渡すことはできません。私はカエサルに上訴します。」

ポイント

今日もいつものようにポイントを2つあげたいと思います。1つ目のポイントは「毎日聖書から力をもらって生活していこう」ということと、もうひとつのポイントは「苦しいことがあっても神さまに助けてもらって乗り越えていこう」ということを思いながらみことばを見ていきたいと思います。

解説

フェストゥスは、この問題を訴えている祭司長やユダヤ人のリーダーたちと面談をすると、彼らは改めてパウロを告訴するのでありました。

けれども、彼らには陰謀があり、フェストゥスにパウロをエルサレムまで連れてきてほしいと願うのでありましたが、以前に失敗したパウロ暗殺計画をもう一度、実行出来るように計画するのでありました。

彼らはパウロを訴えて2年が過ぎた、暗殺しようとしたけれども出来なかったということを根に持っており、忘れることが出来なかったのでありましたが、いよいよチャンスがやってきた、今度こそパウロを暗殺することが出来るかも知れないと思ったのでありました。

パウロに対して訴えることがあるのならば、わたしと一緒にカイサリアまで来るようにと伝えると、彼らはその通りにするのでありました。そして、つぎの日、フェストゥスの言うとおりに一緒にやってきたユダヤ人のリーダーたちとパウロは裁判の席につくのでありました。

パウロに対する訴えの声を上げたユダヤ人のリーダーたちは、多くの重い罪状を申し立てるのでありましたが、フェストゥスにはそれらは重い罪状とは感じられず、またそれらを立証する、証拠や事実によって証明することは出来なかったのであります。

パウロはエルサレムに上っていくようなことになったら、再び命を狙われることになるだろう、不利な裁判を受けなくてはならなくなるだろう、せっかくここまで来たのにまたふりだしに戻ってしまうだろうと思い、カエサルのところへ行くことを決断するのでありました。

私たちの日々の歩みにおいてもいろいろなことがあるのではないかと思います。今日の箇所に記されていたパウロのように、状況がよくならない、考えていたとおりに進まない、祈りつつ神さまのみこころを求めているのに道が開かれない、これまでの私たちの日々においていろいろなことがあったのではないかと思います。

理不尽に思えること、何でどうしてと思ってしまうこと、神さまもう無理ですと不平を言いたくなってしまうこと、いろいろなことがあると思います。どうしたらよいのだろうかと思い悩むときがあるかも知れませんが、聖書の中に登場する人物のストーリーを見ていきますと、もう辛いです、もう十分です、私の命を取ってください、ということがたくさん記されています。

理不尽な仕打ちに遭い、苦しみもだえながら、神に祈り、助けを求めるのでありました。そのようなところを読んでいきますと、神さまはなんでそのようなことをされるのか、神さまはなんで苦しみや試練を与えるのだろうかと思ってしまうのでありますが、それら一つひとつには神さまのご計画があり、神さまの伝えたいメッセージが込められているのであります。

私たちは出来ればそのような困難を避けて通りたい、苦しい道は通りたくないのでありますが、解決するためのヒントを聖書の登場人物から見つけることによって、私たちがこの地に生かされていくために成長させていただくとともに、この地に神の国をあらわすための神さまからのミッションを行っていくことなのであります。

適応

私たちのこれからの日々においても、思いもよらなかったこと、理解できないこと、腑に落ちないことがいっぱいあるかも知れませんが、主がいつも共のいてくださることを信じて、乗り越えていきたいと思います。そして、私たちを通しても、神さまのご計画がこの地でもあらわされますように、神の国が前進していきますように、主に期待して歩んでいきたいと思います。