私たちはどんな神を拝むのか

導入

今日の箇所は、この手紙の主題ともなるようなことが書かれている箇所であります。パウロはローマにいるあなたがたにも福音を伝えたい、福音を恥とはならないのだと語るとともに、神に背く者とならないでほしいと記したのでありました。

ローマ人への手紙1章16-25節
私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。

福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

ポイント

① イエスさまの福音は何であるかを考えてみよう

② 神さまのすごい力を体験してみよう

③ 福音を恥としません。福音は神の力です。

解説

イエスさまを信じることによって、イエスさまの信仰が私たちにも与えられた、イエスさまの義が私たちにも与えられて、信仰によって生きることが出来るようになったのであります。

この神さまの力が、神さまの義が信じる全ての人に、お金持ちもそうでない人も、地位のある人もない人も、どこの国の人であっても、与えられるというのであり、主なる神さまとの交わりを通して霊的な祝福が注がれるのであります。

不義によって神の怒りは天から啓示されているということ、すべての不義に対して神の怒りが示されて、世界全体に及んでいるのだというのであります。神は愛のお方であり、恵みと平安を与えてくださるお方であるのですが、それと同時に神に反逆する者に対しては怒りをあらわされるのであります。神は聖であられるお方であるのですから、罪に対しては容赦無く裁きをくだされるのであります。

神さまとの特別な交わりを持つことのできる存在として選ばれたアダムとエバでありましたが、神に背を向けて堕落してしまったことにより、神と共に歩むことが出来なくなってしまうのでありました。人間の内にあらわされるようになってしまった不義は、神を神としてあがめること、認めることをせず、感謝をすることもせず、自分こそが偉いのだと知恵のあるものと思うようになり、行動において、言葉において、心の内側の考えにおいて、神に喜ばれることをしなくなってしまったのであります。

自分が1番である、賢い人物であると思っているならば、鳥、獣、這うものといったように、下へ下へと、自分では偉く上に向かっていっているように思えても、神さまの目から見るのならば更に堕落した者へとなって神の怒りの対象となってしまうのであります。このようなことを考えますと因果応報のような、悪いことをしたから罰せられたのだ、罰が当たったのだと思えてしまうのでありますが、全ては神さまの基準と考えと采配の中で行われているのであり、人間の思いや行動のこと以上に神さまのご計画がなされているのであります。

適応

イエス・キリストの福音にはこの世の事や物では満たすことの出来ない不思議な力があり、福音を信じる者には神から来る平安と喜びをいただくことが出来るのであります。現代においては、聖書の時代に分からなかったことが分かるようになり、人間の力によって、神の力など借りないで、物事を理解できるようになってしまいました。自然科学や天文学、医学などの発展によって多くのことを知ることが出来るようになりましたが、それらの学問においてもカバーすることの出来ない、解明することが出来ないことがまだまだたくさんあります。

その中でも大きなテーマの一つは、人は死んだらどこに行くのだろうか、ということを考えますときに聖書にあることを信じるのか、信じないのかで人生が変わってくるのではないかと思います。この事についてはいろいろな宗教があり、考え方も違うのでありますが、外の宗教をさげすんだり、馬鹿にしたりするのではなく、キリスト教が一番であると高慢になるのでもなく、真理は何かということを追求していくときに、イエス・キリストの福音にたどり着くのではないかと思います。

私たちは日々の歩みにおいて、もっと聖書に記されている真理を知ることが出来るように、祈りによって神さまの導きを求めて、聖書のみことばに向き合い、格闘していく必要があるのではないかと思います。

パウロがみことばの真理を追究していったように、私たちもみことばを求めていく事が出来ますように、そして神さまの力と知恵をいただいて歩んでいくことが出来ますように、イエスさまの十字架にはどんな意味があったのかと改めて教えていただいて、イエス・キリストの福音を本当に信じる者とさせていただきたいと思います。神さまとの交わりを喜びとし、感謝し、このお方だけを礼拝し、賛美をささげ、仕えていくことが出来るようにさせていただきたいと思います。