導入
今日の箇所は、神のさばきと律法について、律法を知りながら罪を犯しているユダヤ人であっても、律法を知らないで罪を犯している異邦人であっても、律法を守らないのならば裁きがある、神の前に正しい歩みをしていくようにと戒められている箇所です。
ポイント
① いつも神さまと生活しみことばを実行していこう
② イエスさまに助けてもらって良いことを行っていこう
③ 律法を行う者
解説
旧約の時代から語り継がれて律法は、大切にされてきた教えであり、守るのならば恵みであり、守らないのならば裁きにあうというのであります。この律法による裁きは律法を知っている人、知らない人に関わらず、罪を犯していると認められた人は、大いなる日の裁きがあるのだというのであります。
ユダヤ人たちはシナゴーグにおける礼拝において律法を定期的に聞いていました。律法を聞くということに意味があるのではなく、律法を行うことに意味があるのだ。律法を持つ、持たないとも書かれており、生まれつき律法を聞くチャンスのある人もいれば、チャンスのない人もいる。生まれつき律法を持っているユダヤ人にとっては何が良いことであり悪いことであるかを理解しているが、律法を持たない人、律法を聞く機会のない人であっても、自らの自分に対する律法、何が良いことであり悪いことであるかわきまえることのできる感覚が与えられているというのであります。
この良いことをする感覚、良心に従って歩めば良いではないかとも考えられるのでありますが、そうではなく、主なる神さまとの関係を正しく持ち、神さまのみこころと一致して、考え、決断し、行動していく事が大切なのであります。罪があるのならば律法を守ることが出来ず、律法を守り行うのには罪の問題に勝利していかなくてはならないのであります。律法を守っています、良い行いをしています、と言っても、心の中で言い訳をしていたり、あの人がどうだこうだと言ったり、愚痴をこぼしたりしてしまうのならば、律法を守ったことにならず、良い行いをしたことにもならないのであります。神さまは一人ひとりの発言や行動を大切にされるのでありますが、それと同じように心の中も見ておられるのであります。
適応
私たちの日々の歩みにおいてはいろいろなことがあるかも知れませんが、それら一つひとつが神さまの栄光へとつながっていくのならば、この世のものでは得ることの出来ない喜びへとつながっていくのであります。
今日このとき、もう一度、私たちの歩みがどのようなものであったか、神さまの喜ばれる歩みをしてきたかどうか心の内側を探っていきたいと思います。そして、まだ勝利していない罪の問題があるのならば、神さまの御前に悔い改めて、きよめていただいて、みこころにかなった歩みをしていけるようにさせていただきたいと思います。本当に良いことは何なのかを神さまから教えていただいてみことばを実行していきたいと思います。