私たちのすぐれているところは?

導入

今日の箇所は、パウロの伝えたかった律法と福音の関係について、罪の問題と義と認められることについて記されている箇所でございます。パウロは旧約聖書のいろいろなところを引用して、ユダヤ人をはじめすべての人に福音のメッセージを伝えようとして語るのでありました。

ローマ人への手紙3章9-20節
では、どうなのでしょう。私たちにすぐれているところはあるのでしょうか。全くありません。私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にあるからです。

ポイント 

① 心の内側に罪があるかないか確認をしよう

② イエスさまの福音によって罪を赦してもらおう

③ 私たちにすぐれているところはあるの

解説

パウロは人間の身体の様々な部分、足の裏から頭まで罪という問題に関わっていると語るのでありました。

13節に記されていること、喉は開いた墓であるということ、当時は遺体を火葬する習慣がなかったので、墓の中で遺体を腐敗させて骨にしていました。したがって彼らの口からでる言葉は、遺体の腐敗臭のようで、人々をあざむいたり、だましたりするのでありました。そんな彼らの言葉にはまむしの毒のように人々を傷つけるのでありました。

また14節にも言葉に関することが記されており、まむしの毒を発出する彼らの口は呪いと苦味に満ちているというのであります。

続いて15節から17節のところには、足に関すること、また足を使って歩く道に関することが書かれており、彼らの足は血を流すのに速いということ、神の戒めを守るために歩む足が、人を暗い犯罪行為に導くために使われ、そこには破壊と悲惨な結末がある。彼らの道に平和の道はなく、人々を災いの道へと巻き添えにしていくのだというのであります。

そして18節で、このような歩みを行っている人々は、神への畏れはなく、神を神と思わないで、自分勝手な道を進んでいくのであります。

パウロはこの福音のメッセージをユダヤ人、ギリシヤ人、異邦人、すべての人に知ってもらいたいと思い、ありとあらゆる方法を使って語るのでありました。

適応

ユダヤ人たちが律法という基準によって自分たちの考えや行いを判断していったように、私たちも聖書のことばによって何が正しくて悪いことなのかを判断していくことが出来るようにさせていただきたいと思います。

今日も聖書のみことばによって、神さまのことばによって、私たちの心の内側を探っていただき、きよめていただき、神さまの喜ばれる歩みを送れるようにさせていただきたいと思います。