アブラハムは神を信じた

導入

今日の箇所は、これまでに語られてきた信仰義認に関することについて、実際の例として旧約聖書に登場しますアブラハムを例にあげて語られている箇所であります。アブラハムが神を信じて歩んでいったことを思いながらみことばを見ていきたいと思います。

ローマ人への手紙4章1-8節
聖書は何と言っていますか。「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあります。

ポイント

① イエスさまにつながってステキな実を結ぼう

② 毎日神さまだけを信頼して生活していこう

③ 神を信じた

解説

これまでに語られてきました信仰によって義と認められるということについて、パウロはここでアブラハムを例にあげて語り出しました。これはユダヤ人にとって衝撃なことであったかも知れませんが、意味のある、効果的な語りかけであったと思われます。

アブラハムは行いによってではなく、神を信じたことによって、信仰によって義とされたと言うのであります。もし肉親であるアブラハムが業によって義とされたのであるのならば、アブラハムは栄光を得る、誇ることが出来るのでありますが、神の御前にでるのならば、そんなことはないのだと。

このことについて、聖書は何と述べているのかというと、アブラハムは神を信じたことによって、義とされた。創世記15章6節を引用しまして語ったのであります。

パウロはここで詩篇32篇1節と2節を引用して、3節にありました創世記15章6節のみことばを確認するのでありました。

義とみなされるということは、行いによるのでもなく、信仰によるのでもなく、神さまからの一方的な恵みであり、祝福であり、あわれみであるのだ。我々の罪が赦され、罪が覆われて、咎が認められなくなる、恵みと祝福を与えてくださる神さまに賛美をささげるのだというのであります。

これらは3章にもありましたように、イエス・キリストの十字架によるところの救いの御業によってなされていくことをパウロは何としてでも伝えたかったのでありました。

みことばの種が心の内に蒔かれ、やがて芽を出し、豊かな実を結ぶ。イエスさまから離れてしまうのならば、水も栄養も受け取ることが出来ずに枯れてしまうのであります。イエスさまの幹にしっかりとつながることによって、神さまからのまことのいのちを受け取ることが出来るのであります。

アブラハムもダビデも神を信頼して歩んでいったように、ユダヤ人であっても、異邦人であっても、主と共に歩む者となってほしいとパウロは願っていたのでありました。

適応

主に信頼して歩む、イエスさまの十字架によって救われていることを信じる、イエスさまの神さまに対する信仰によって私たちも救われていると感謝することが大切なのであります。

主に信頼して歩むとき、私たちもアブラハムのように神の友として歩むことが出来るのであります。私たちの生かされているこの地上においては、理不尽に思えること、理解できないこと、裏切られ、苦しめられることがあるかも知れませんが、主なる神さまは絶対にそのようなことはなさらず、助けを与えてくださるのであります。

神さまからの一方的な恵みと祝福をいただいてこれからの日々も主と共に歩んでいきたいと思います。