導入
今日の箇所は、信仰と割礼について、信仰と律法について語られている箇所であります。義と認められるということは律法を行ったからということではなく、信仰によって義とされるのだ、神さまの約束を信じて歩むことが大切なのだと語られている箇所であります。
ポイント
① 神さまからのプレゼントを感謝して受け取ろう
② 神さまだけを信じて、信頼して歩んでいこう
③ 相続人となる
解説
7節と8節で語られていたこと、ダビデが主なる神さまとの関係をしっかりと結んで、行ないによるのではなく、義とされて、祝福を受け取り、主への賛美をささげたことが記されていました。9節からは、もう一度、割礼のことに焦点を当てて、律法を守ること、義とされることについて記しました。
パウロをはじめユダヤ人たちは「アブラハムには、その信仰が義と認められた」と話ししているけれども、アブラハムが義と認められたのはいつであったのかというと、割礼を受ける前であったではないかと語ります。
このことは創世記15章6節に記されていることばを引用しており、父なる神さまがアブラハムと全ての者に割礼を授けよと命じたのは創世記17章であることから、アブラハムが信仰によって義と認められたのは割礼を受ける前であったのだと確認しました。
割礼はアブラハムの義の根拠ではなく、アブラハムがその信仰によってすでに持っていた義のしるし、あるいは印であったというのであります。パウロは、アブラハムが割礼を受ける前に義とされたことは、異邦人クリスチャンのように割礼を受けなくても義とされることをあらわし、またユダヤ人クリスチャンのように割礼を受け、尚且つ信仰によっても義とされていること語ったのでありました。
創世記をキリストによって神のご計画が成就したということに照らして読むのなら、アブラハムをユダヤ民族の父であるとともに、すべてのクリスチャンの父でもあると言えるのであります。
適応
私たちは日々の生活において、当たり前になっていて気づかないことが多いかも知れませんが、神さまからの恵みと祝福をたくさんいただいているのであります。
目に見えること、感じること、手に入れられていること、いろいろなことがあり、数えられないほどの神さまから恵みと祝福、そして何よりも罪からの救い、神さまとの交わり、そして新しいいのちといった何にも変えることの出来ない恵みをいただいているのであります。
私たちのこれからの日々、どのようなことがあるかわかりませんが、つらいとき、苦しいとき、悲しいとき、大変なとき、うれしいとき、楽しいとき、何をやってもうまくいくとき、いろいろとあると思いますが、イエスさまがいつも一緒にいてくださることを信じて、感謝して過ごしていきたいと思います。私たちも主を信じ、ただしい者とさせていただいて、主を信頼して歩めるようにさせていただきたいと思います。