今日の箇所は、聖霊なる神さまが新しいいのちと平安を与えるお方であるということ、このいのちをうけとるのならば、キリスト・イエスにある者とされて罪に定められることがないのだということについて記されている箇所であります。
御霊に属する者となるのならば、御霊が内に住んでくださるというこの世の何ものにも代えることの出来ない素晴らしい恵みについて記されている箇所であります。
ポイント
① いつも御霊に導かれて歩んでいこう
② 神さまとお話し出来ることを感謝しよう
③ いのちと平安
解説
8章に入りましてパウロはこれまで書き記してきたことをまとめるようにして、「こういうわけで」と語り出します。
心の中の葛藤を正直に語ったパウロは、自分の内側には良いものが何もなく、持っているものは罪深い性質だけであり、神に従うことを妨げられている。律法はすばらしいとわかっていても、律法を実行することができない。
そんな思い通りにならない自分は本当に惨めな人間である。けれども、そんなあわれな私をイエス・キリストは見捨てなかった、罪の奴隷から救い出してくさった、だから私は神に感謝すると語りました。
イエスさまとともに歩む者は、いのちの御霊の律法によって、罪に定められることはなく、罪と死から解放してくださる、聖霊によって助けられて、新しい人生を生きることができるようになるのであります。
そんな素晴らしい毎日を送れるのだから、自分の肉を満足させる、自分の欲求を満たすためだけに生活するのではなく、神さまの霊に導かれて、神さまとともに歩むのならば、新しいいのちと平安を受け取ることが出来るのであります。
これまでにキリスト・イエスによって、神の霊を受けて、罪と死への束縛から解放される必要があるのだと語ってきたパウロは、もう一度このところにおいて、律法という古い教えによる大きな力は、人間の弱さのために、罪の束縛を断ち切ることができなかったのだから、神の霊によって行動することが大切なのだと改めて語るのでありました。
肉に従うのならば肉の属すること、肉を満足することを考えてしまうのだけれども、御霊に従うのならば御霊に属すること、神の喜ぶことを考えて行動することが出来るようになると言うのであります。
肉の思い、肉に従って歩むことは、神に敵対することになり、神との交わりを断つことになり、永遠の死へと向かっていってしまう。けれども、主の思いと一つとなって、主に導かれて従って歩むのならば、新しいいのち、永遠のいのちを受け取ることが出来、神の御手の中で守られて、安心して、平安の中で生活できるというのであります。
適応
私たちがイエス・キリストとともに歩むのならば、光の中を歩むことが出来るようになり、主なる神さまとの交わりが与えられるのであります。
私たちはこれからの日々、どのような歩みをすべきなのでしょうか。肉の思いを優先して、自分の喜ぶことだけを行っていくのか、それとも、御霊に属する者となって、神の喜ばれることを選びとっていくのか。本当なら両方ともしていきたいと思うのですが。
であるのならば、私たちの思考、考え方をちょっと変えて、神さまの喜ばれることが私の喜ぶことなのだ、神さまの喜ばれることをするのが楽しいことなのだ、と思えるようになるのならば、御霊に属する者となって神さまとの交わりを喜び楽しむことが出来るのではないかと思います。
では、それはどんなことかとかんがえますと、それは人それぞれ、みんな違うのではないかと思いますが、あえて一つあげるのならば、主を賛美すること、礼拝をすることなのではないかと思います。私たちが日曜日の礼拝はもちろんのこと、日々の生活において、主を賛美し、礼拝するときを持つのならば主と共に歩む恵みをいただくことが出来るのであります。
今日も私たちに真理の御霊が与えられていることを感謝して、神さまの恵みの中を歩んでいきたいと思います。