今日の箇所は、イスラエルのつまずきと異邦人の救いについて記されている箇所についてであります。イスラエルのつまずきということは、イスラエルも異邦人も救われるために必要な神さまのご計画なのだと記されている箇所です。
ポイント
① イエスさまによって救われたことを感謝しよう
② イエスさまと一緒に楽しい生活をおくっていこう
③ 接ぎ木されます
解説
この11節からにおいて、パウロは再び質問を用いて次の段階の議論を展開していきます。彼らは立ち直れないほどつまずいたのはなぜなのかと質問を投げかけます。イスラエル全体がつまずいてしまった、倒れて落ちていってしまったということ、それは父なる神によって定められた義の手段であるキリストへの信仰を持てなかったからなのだというのであります。
パウロにとってこのことをどうしても知ってほしいと思い、このところにおいて何度も強調して、ユダヤ人がねたみを起こしたこと、異邦人に救いの道が開かれたこと、やがてユダヤ人にも救いがあらわされていくことなのであり、そのことは、素晴らしい特別な富を得ることなのだ、死からの復活、新しいいのちを得ることなのだと。
このような何にも変えることの出来ない喜びとうれしさ、楽しさを体験するため、味わうために福音を伝えているのだと、この働きを進めているのだとパウロは語るのでありました。
パウロはここでこれまで語ったことをまとめます。元々あったユダヤ人である枝が剪定されて切り取られてしまうこと、それは辛く苦しいことであったけれども、なくてはならない大切な事であったのだ、元々あった枝の方が良いのか、新芽として生えてきた枝の方が良いのか、それとも、接ぎ木された枝の方が良いのかということよりも主からの問いかけに応答して救いの恵みに預かることが大切なのである。父なる神は彼らが望むのならば、どちらの枝も神の民となれるオリーブの幹に接ぎ木することが出来るのだというのであります。
適応
人生は一度きりだから、おもいっきり楽しもうということを耳にすると思います。私たちがこの地で生かされているときは、新しいいのち、永遠のいのちが与えられたあとに比べたらほんの一瞬かも知れませんが、いま与えられている生涯、主と共に歩む日々を楽しみ、喜び、神さまの栄光をあらわす者とさせていただきたいと思います。
私たちのちょっとした行動、喜んでいる姿、楽しんでいる姿によってあの人は何か違うと多くの人気づくようになれるように、愛のあることば伝えて、配慮のある行動をして、イエスさまの栄光があらわされるように、そして一人の人の魂を勝ち取ることができるようにさせていただきたいと思います。