今週はイエスさまが十字架で苦しまれた受難週です。イエスさまの十字架が私のためだったのだと言うことを心に刻みながらすごしていく一週間とさせていただきたいと思います。
ポイント
① イエスさまの十字架によって罪が赦されていることを感謝しよう
② イエスさまの十字架を見上げながら歩んでいこう
③ ユダヤ人を恐れてそれを隠していたアリマタヤのヨセフ
解説
長い時間、十字架において苦しまれ、全ての人の罪を贖い、身代わりの死を迎えられて、ご計画を完了するのでありました。
イエスさまが亡くなられたときは安息日がもうまもなく始まろうとしていました。ユダヤの日にちのカウントのしかたは日没から一日が始まり日没で一日が終わる数え方なので、早くしないと安息日が始まってしまう、何とかしてイエスさまを十字架からおろし、埋葬しなければと考えていました。
アリマタヤのヨセフの勇気のある行動、彼はサンヘドリンの裕福な議員として、イエスさまのからだの下げ渡しをピラトに願ったのでありますが、彼の仲間のほとんどは、「イエスを十字架に付けろ!」と叫んでいた人々でしたので、こんなことをしたらサンヘドリンの議員たちから、また同胞のユダヤ人から迫害を受ける、もしかすると社会的地位を剥奪されるかも知れない。しかし彼は勇気を出して、イエスさまのからだの下げ渡しを願ったのでありました。
その結果、彼の申し出が受け入れられ、埋葬する準備のために亜麻布をもってイエスさまの十字架のもとへ走っていき、またイエスさまによって救いを受けたニコデモも没薬とアロエを混ぜ合わせたものを持っていき埋葬の準備を手伝うのでありました。
これまでの出来事を思い返しながら、もうまもなく日が暮れてしまう、安息日が始まってしまうと時間を気にしながら、イエスさまの身体に亜麻布をまき、岩を掘って造った墓にイエスさまの身体を納め、墓の入口には大きな石をころがし、丁重に埋葬をするのでありました。
埋葬するということ、墓に納められるということは、死んだことを決定付けるものであって、埋葬を願い出た者がいて、死んだことが正式に確認され、埋葬の許可がおりて実行されるのであります。
ヨセフにとってこの行動は自分を捨てて、神の国をあらわしてくださったイエスさまに仕えたというひとつの行動であったのです。このヨセフはどんなことを思って行動をしたのか。突発的に思い立って、後のことは考えないで行動したのか、それともいろいろな準備をして計画をたてて行動したのか。どちらかはわかりませんが、どちらにせよイエスさまに仕えるということを選び取ったのでありました。
適応
私たちが誰かのために仕える、イエスさまのように愛を持って仕えるということは、本当に大変なことであります。これまで経験したことのない難しいことや、自分の苦手な分野でやりたくないことなどをしなければならないこともあるかも知れません。
私たちはどのようにしたらイエスさまのように仕えることが出来るのか。隣人を自分自身のように愛することができるのか。自分がしてもらうのは嬉しいけれども、自分のしてもらいたいことを誰かのためにする、誰かのために何かを行うというのはなかなか難しいことであります。
そんな弱い私たちであるかも知れませんが、イエスさまがいつも一緒にいてくださいます。いつでも、どこでも、どんなことでも「イエスさま、力をください!勇気をください!!」と祈るのならば、主は必ず答えてくださり、勇気を与えてくださり解決の道を与えてくださいます。
私たちが誰に対しても神さまからの愛を頂いて、実践をしていくのならば私たちはイエスさまのように仕える者となることが出来るようになるのです。